大好きな叔父(70代)が昨年の12月に入院した。
一般病棟にて闘病中であったが、つい先日CCU(心臓系の集中治療室)へ移った。
5年ほど前にも同じようなことがあったが、その時は奇跡的に一命をとりとめ、ペースメーカーを使用し日常生活を送っていた。
2度目の今回は「どうしようもない」らしい・・。
そんな叔父から
「おそらくもう最後になるだろうから、意識があるうちに最後に皆に会っておきたい」
という伝言を受け、病院へ向かった。
叔父が入院している病院は現在コロナウィルスの関係で一切面会謝絶とのことだったが、事情が事情なだけに「数分なら良い」とのこと。
数年ぶりに会った叔父はすっかり弱り、やつれ、全身に絡みつく管たちがその姿を一層強調しているようだった。
最初は意識が若干朦朧としているような感じであったが、だんだんとはっきりしてきたので、その姿だけを見るととてもこれから死へ向かう人の姿には見えなかった。
だが、他人からどう見えようとも「自分の身体の事は自分が一番よくわかっている」らしい。
今回は「延命しないこと」を選んだ叔父。
そんな叔父の最後のわがまま
「遺灰の一部をトロシュナ村に埋めて欲しい」
*トロシュナ村はスイスのレマン湖近くにある小さな村
叔父は昔からオードリー・ヘプバーンが大好きだ。
彼女の墓がそこの村にあるらしい。
叔父はこのわがままを昔から家族に言っていたらしいが「ただのジョーク」と受け取られていた。実際に叔父もジョークのつもりで言っていた部分はあったのだろうけど。
でも私にはジョークに聞こえなかった。
このわがままを聞いたのは私は初めてだったし、叔父も少し笑いながらジョークっぽく言っていたのだが、
人間が死を前に言うことであればそれはどんな表現であろうとも本心なのではないか?
そう思った。
「叔父さん、それは俺がやる。約束する。」と口にしていた。
叔父には息子も娘もいるが、お互い家庭を持ち仕事も忙しくやっているのでとてもじゃないがそんな時間は取れない。
後から考えるとちょっと「差し出がましいこと」を言ってしまったかなと思ったのだが、その後奥さん、娘さんの了承も得られたので叔父が亡くなった後に私が約束を果たすことになった。
まあ、親族を見渡しても独身で身軽なのは私くらいしかいないし。
叔父は子供時代の私が見てもいつも素敵な人であった。
服飾関係の仕事をしていた叔父はいつもお洒落なモダンボーイ(表現古い?)であり、ロマンを持ち続けたまま一足先にあっちへ逝くことになる。
死を目前にしてすごくさっぱりとした姿を見ると、自分が死ぬときもこのような心持ちでありたいと思えた。
誰にでも訪れる死、あと数十年もすれば自分も死ぬ。
大好きな叔父のように、身辺整理をきっちりとやり、大切な人たちに見守られ清々しく逝けるのならば、それはすごく幸せなことなのであろう・・。
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